素読

本木敦です。

信託のお話ではないですが,少し箸休めにおつきあいください。

江戸時代以前は,子どもの教育といえば漢文であったと言われている。

「かつて,漢文の素読が行われていた。ろくに字も読めないような幼い子どもに,四書五経といった,最高度の古典を読ませる。読ませるというのは正確ではない。声を出して朗誦するだけである。先生は意味をご存知だが,習うこどもには,チンプンカンプン,何のことかさっぱり分からない。しかし,漢文の素読では,意味を教えないのが普通で,だからこそ素読というわけである。いくらこどもでも,ことばである以上どういうことが気にならないわけがない。」(思考の整理学 外山滋比古)

私は,幼少の頃,母親から,平家物語の冒頭であるとか,方丈記などの古典の素読をするように言われていた。しかし,まったく意味はわからなかった。ただ,リズム,テンポがよく割と直ぐに覚えることができた。ただそれだけだった。私は,この古典の意味を理解したいとは思うことがなく,ただ覚えていただけだった。

年齢を重ねるにつれて,幼少の頃,覚えた古典の意味が少しづつ理解できるようになった。先に挙げた古典は中学校高校でも学んだが,当時,私の最も嫌いな教科は古典。素読と古典の成績は必ずしも結びつかないものだと思う。理解できるようになってきた古典は,自らの行動の規範となっている。

母親の素読教育に感謝したい。このようにだんだん理解することになるものも大切だと,人の親になって思うものである。